蚊をころすと罪になりますか?
罪になるとしたらどういった罰を受けますか?
そもそも罪は誰が決めるものですか?
何故罪を犯したら罰を受けなければならないんですか?
罰を受けないとどうなりますか?
罰を受けさせられない罪はどう処理するべきですか?
おまけ
掲示板などで空気が読めない事は罪になりますか?
なるとしたらどんな罰が適当だと思いますか?
何が罪なのかは自分が決めるんだと思いますよ
その罪を赦すために罰が有るのだと思う
(いや当然見せしめの意味や教育的な意味もも有りますが)
自分が罪だと思えば例え法律で定められてなくとも自分に罰を与えますし
(自責の念や後悔など、それらが強ければ自傷などにも繋がります)
以上を踏まえると
>蚊をころすと罪になりますか?
>罪になるとしたらどういった罰を受けますか?
>そもそも罪は誰が決めるものですか?
の問いは
蚊を殺した事に罪の意識を感じればそれはもう自分にとって罪であり、自分で考える妥当な罰を自分に与えて自分を赦しているとなります
次に
>何故罪を犯したら罰を受けなければならないんですか?
>罰を受けないとどうなりますか?
>罰を受けさせられない罪はどう処理するべきですか?
でも、罪を受ける理由は自分を赦すため、また自分を赦して欲しいからとなり、罰を受けなければそれが出来ないとなります
また、罰を受けさせられない罪とは具体的にどういうことなのでしょうか?
1、罰を受けるべき対象がすでに存在しない
2、罰を受けるべき対象が罰を与えるモノよりも力が強い
3、第三者の感覚では罪なのだが、罪として定められたモノではないから、罰を与えるモノが動かない
想定しているのはこの中のどれでしょうか?もしくは、このかなのもの以外でしょうか?
おまけのおまけ
『空気が読めない』って便利な言葉ですよね、空気を読むっていったいどういう事なんでしょうか?
まぁこっちも空気を読んで回答すると、実際掲示板では空気が読めてないと誰もレスしてくれてなかったり
それ以降の発言も完全に無視されるようになります、それを対象者が苦痛に感じればそれが罰になるんじゃないかな
その結果、空気が読めるようになればそれは教育的な罰になるし、DQN化して抹殺されれば見せしめ的な罰になると思いますよ
a-rainさん、はじめまして。
そして回答ありがとうございます。
まず
>何が罪なのかは自分が決めるんだと思いますよ
とのお答えですが、確かに蚊を殺すといった罪ではそれでいいのかもしれませんが、
そうはいかない罪(おまけの罪など)もあると思います。
(おまけの罪が罪となりうるのかは、また別で)
とここでまた新たな疑問がでてきました。
自分で決めていい罪とそうでない罪のちがいってなんでしょうか?
罪と罰について、議論を進めるにはまずこの二つをはっきり分ける必要がありそうですね。
>また、罰を受けさせられない罪とは具体的にどういうことなのでしょうか?
>1、罰を受けるべき対象がすでに存在しない
>2、罰を受けるべき対象が罰を与えるモノよりも力が強い
>3、第三者の感覚では罪なのだが、罪として定められたモノではないから、罰を与えるモノが動かない
正直3しか想定していませんでしたが、できれば場合分けなどして全部に対して回答をいただきたいです。
おまけ
>『空気が読めない』って便利な言葉ですよね、空気を読むっていったいどういう事なんでしょうか?
ここがこの罪と罰の議論で一番難しい部分になってきそうですね。
どういう時にその行いが罪となるのかもっと考えていく必要がありそうです。
基本的に罪ってのはルールを破ったか否かで判断すればいいと思うのですが
その点で言えば、ルールで禁止されていない事は別に罪じゃないと思いますよ
また、自分で決めたルール(罪)の対象は自分のみにするべきだとも思います
ですから自分で勝手に決めたルールに貴方も従えと強要する事には賛成できません
1、ならば諦めるしかないと思います。
2、ならば地道により強いモノ(世論など)に訴えて行くしかないと思いますね
3、ならば罰を与えるモノ(管理者など)に掛け合って罪として定めてもらうよう働きかけることですね
ルールで禁止されていない事は罪じゃないとのことですが、
ここでのルールには暗黙のものも含まれてますか?
目上の人を呼び捨てにしたり、待ち合わせに遅刻したりすることは
罪になりますよね。 そしてちゃんとした間柄の場合だときちんと罰が与えられます。
げんこつだったり、アイスを奢るはめになったり。
罪に対して罰を与える事の元々の目的は社会を円満に保つためなんですよね。
もちろん自己統制の為に使われることもありますが、
ここでは社会での罪と罰にしぼって議論していきたいと思います。
しぼると最初に書いた質問の答えもまた変わってきますね。
せっかく答えてもらったのに説明不足ですみません。
もう自分で考えた事をづらづらと書いていきたいと思います。
おかしなとこという罪があれば突っ込みや指摘という罰をお願いします。
最初の質問に自分の考えで答えると
1、だいたい罪になりません。 罪になること、つまり社会の円満に害を及ぼすことはなかなかないので。
2、この問題はいろんな場合があるので一概には答えれませんね。 あえて答えるなら損害賠償かな。
3、この問題がたぶん一番難しいですね。 長くなりそうなので次回に書こうと思います。
4、いろいろな考え方があると思いますが、自分は周り(社会)を納得させる為だと思います。
5、周りから納得されないので、阻害されるなど、罪を超えた罰を受けたりすると思います。
ここでの阻害はその社会で生きていけないことを指していて社会的抹殺を意味します。
人は一人では生きていけないので、これはほとんど殺されると一緒の事だと思います。
6、上のようなことにならないために極力しかるべき罰を与えてあげるべきです。
これはa-rain さんが出してくれた3つの場合すべてにいえます。
おまけ
その言葉がその話の目的が達成されないような発言に関わってくるようなことであれば
罪になると思います。 本当は空気読めでなくて目的考えろが正しいのかも。
>自分が罪だと思えば例え法律で定められてなくとも自分に罰を与えますし
(自責の念や後悔など、それらが強ければ自傷などにも繋がります)
自傷させない為にも周りだけでなく本人も納得できるような罰を与えることが必要なのかもしれませんね。
これは余談なんですがお笑いのぼけと突込みって罪と罰の考え方と当てはまりそうじゃないですか?
そう考えると浜ちゃんの突込みはほんとお手本みたいな突込みですよね。
松ちゃんのほうが人気あるのはちゃんと罰を受けてるからなのかもしれませんね。
反対に爆笑問題はちゃんと突込めてないせいか、ぼけのイメージが余りよくないですね。
んー 暗黙のルールってのはルールじゃないと思うんですよね
待ち合わせってのは相互の取り決めなわけで、そもそもが「指定した時間にどこどこに来る」というルールなわけで
それを破るのは明らかなルール違反だと思いますよ。
んで、敬語云々の話は別に罪じゃないと思う、ただ相手との力関係で自分の方が弱いというだけで
尊敬できない相手に無理に敬語を使うのは相手に媚びてるだけなきがする
まぁ罰というのを自分の不利益全般と拡大解釈すれば、弱肉強食の世界では弱いって事がそれだけで罪になるのかもしれないですね
>敬語云々の話は別に罪じゃないと思う、ただ相手との力関係で自分の方が弱いというだけで
>尊敬できない相手に無理に敬語を使うのは相手に媚びてるだけなきがする
媚びるとかではなくて、そうしないと周りに許されないって事になると思うんですが、どうなんだろう。
きちんと罰が与えられなければ、生意気だって事で上に書いたみたいに阻害されると思う。
罪の定義って難しいですね。
おおまかに言えばある目的があって、それの障害となるような行為が罪となるってことはあってると思うけど、
その目的が社会によってまちまちではっきりしてない社会も結構あると思うし、
その障害となる行為っていうのも幅が広すぎてなかなかつかみづらいものがありますね。
目上の人に敬意を表すべきって考えは孔子さんの考えで、その目的は国をよくするためだったと思います。
どういう経緯でその考えに至ったのか詳しい事情はわかりませんが、それをしないことで争いごとが多かったからその考えに至ったのではないかと思います。
人が社会を形成して生きていくための大切な事に調和を保つといった事がありますよね。
その目的の為にそれに反することになりうる行為を罪とするならば、
目上の人に敬意を払わない事はこれに背くことになり、罪といえるのではないでしょうか?
まあこの考えは孔子さんの考えが正しくて今の資本主義社会でも十分あてはまると仮定した場合ですが。
でも現実問題としてまだこの考えが根付いていると思うので、特に法律として存在するわけではなくても、現社会ではまだ罪として存在しているものと思います。
>弱肉強食の世界では弱いって事がそれだけで罪になるのかもしれないですね
一人で生きているなら罪にはならないし、むしろ強者の糧になれるので逆に貢献してると考えられるけど、
守るものがある人は罪になっちゃいますね。 守るという目的が弱いという理由ではたせないわけですから。
この守らないといけないものは確か仏教用語でほだしといってこれがあると仏になれないっていうのがあったと思います。
仏になるには罪を犯さない為に弱者にならないといけないけど、ほだしがあると弱いことが罪になるのでそれがなくなってから
でないといけないということですね。 たぶん。
仏教もなかなか奥がふかそうです。
うーん、斜めに見れば、力の強いモノが気に食わないと思ったことは全部罪だとされてしまうんじゃないですかね
罰を与えうる力があって初めて罪ってのがあるのかも、そして誰もが罰を与える力を持っているわけで
だから逆に言えば全てのモノや行動は罪であるって考え方もできますよね
全て罪だけど、全部裁いていたんじゃとてもじゃないけど世界が回らないから、最低限必要なモノだけお互いの合意の上で裁いてるんじゃないかな
やっぱり、罰を与えるものと罰を受けるものの間での合意ってのは必要だと思う
私は罪の本質は罰そのものであり、罰のみであると思います。
仮に、
(どこかで聞いた話ではありますが、)公然で耳を出すと「猥褻罪」になるとします。
それは、「tumi」(罪)と発音されるものです。
また、「tumi」を犯した人は「batu」(罰)を受けなくとはならないとします。
まず、それをしたものはbatu、対価として何かしらの不利益(罰金、拘留など)を受けさせられるとします。
であればtumiは間違いなく罪でしょう。
では逆に、それをしたものはbatu、対価として何かしら利益(現金、大田原牛、美女のキスなど)を得られる場合を考えて見ます。
その場合、tumiは発音が罪と同じだけの、何か別のものでしょう。
>1
>蚊をころすと罪になりますか?
>罪になるとしたらどういった罰を受けますか?
蚊を殺すことに、何かしら心の痛みを感じるのならそれは間違いなく『あなたにとって』罪です。
社会的になんら罰と言えるものが無いのならそれは『社会的に』罪ではありません。
>そもそも罪は誰が決めるものですか?
『何にとってか』によって罪かどうかは変わります。
イスラム社会と仏教圏と私の家庭と、それぞれによって罪かどうかは変わります。
全能の教祖が罰を下すとかのたまっていて、あなたがそれを信じるなら教祖に体を許さないことも罪です。
強いて言うなら、結果が自己にとって利益か不利益かを判断する『あなたの価値観』こそ罪を決定します。
>何故罪を犯したら罰を受けなければならないんですか?
罰があるものが罪です。
>罰を受けないとどうなりますか?
>罰を受けさせられない罪はどう処理するべきですか?
なるようになります。
・・・・後半は脱力気味です。
ほっほっほ。若いのう、皆の衆。
この世は関係、つまり信頼の世界じゃ。
だから人の世で、確かに言えることはじゃな、
何かすれば、“報い”が返ってくる、ということじゃよ。
それは恩かもしれんし、仇かもしれんのう。
罪と罰ではないのじゃ。真相は、愛と憎しみじゃな。
さらば若僧よ。わしはもう寝るわい。
罪と罰を決める為には、善と悪が必要ですが・・ 丁度真ん中は何と言うのでしょうか?? つまり基準を決めているのは権力者及び独裁者しか居ません。 俗世間で云う二元論の話です・・世界的教育の進化論の弱肉強食だから、いじめも世界的に起こっているし戦争も大人のいじめである事は御承知のとおり、 昔、拝火教のゾロアスターが言ってました、悪とは未熟な善です。と言ってたから、ここでも二元論は無いと云う事を説明しています。 そんな訳で、お嬢ちゃん・・ 大人を信じちゃいけません。
罪を決めるのは大まかに分けて二つ考えられるでしょう。
1.法律、慣習、不文律など
2.良心
1は「私」の外側にあるルールです。
このルールを決めるのは、国家、習慣、歴史、宗教などであります。
2は「私」の内側にあるルールです。
このルールはまさしくこの「私」が決めるものです。といっても「私」は周囲の影響を受けて自分の内なるルールを形成していきますから、1のルールと無関係とは言えません。要するに外側のルールを内面化することになるのです。
もちろん外側のルールと無関係に内なるルールを形成することもあり得ます。例えば神戸小学生殺害事件の犯人「少年A」は自分の内なるルールを形成するよすがとしてバモイドオキ神を想定しました。
>9
>>蚊をころすと罪になりますか?
>>罪になるとしたらどういった罰を受けますか?
>蚊を殺すことに、何かしら心の痛みを感じるのならそれは間違いなく『あなたにとって』罪です。
>社会的になんら罰と言えるものが無いのならそれは『社会的に』罪ではありません。
ここには端的に、二つの罪の定め方が示されていると思います。社会にとって罪であるということは、即ち法律、慣習、不文律等です。
あなたにとって罪であるということは、即ち良心であるといえます。
>1
>罪になるとしたらどういった罰を受けますか?
日本の法律では蚊を殺しても罪になりませんから法律によって罰を受けることはありません。良心の呵責を感じるのなら、自分で自分を裁いていることになり、「自分は蚊を殺してしまった」という自責の念が即ち罰となります。人により自責の念が強くなると自傷行為や自殺に向かう場合もあるでしょう。
>1
>何故罪を犯したら罰を受けなければならないんですか?
ルールでそう定められているからです。逆にいえばルールで定められていなければ罰を受ける必要はありません。
ルールで定められていないのに罰を受けることは、場合によってはそのことが「ルール違反」となります。
ルールを守るとは、罪を犯さないようにすることだけではありません。罪を犯した時、定められた罰を受けることによって私たちはルールを守っているのです。
この考えでいけば、厳密な意味でのルール違反とはルールに定められていないことをすることとなります。
>1
>罰を受けさせられない罪はどう処理するべきですか?
つまり罰がルールに定まっていないのなら、罰は受けられないのです。ですから、罰を受けさせたいのならルールを定めなければならなりません。ルールの定め方は種々あります。法律なら国会で定められましょうし、掲示板のマナーなら対話や慣習によって定められるでしょう。
>11
>罪と罰を決める為には、善と悪が必要ですが・・ 丁度真ん中は何と言うのでしょうか??
ルールに定められていないのなら、丁度真ん中なるものは想定されないことになるのです。
ところで、丁度真ん中なるものを排除するため、徹底的にルールを定めた民族がいます。ユダヤ民族(一般にパリサイ人と呼ばれる人々)です。
神はユダヤ民族に十の法律を定めました。いわゆる十戒です。
その中のひとつに「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」というものがあります。要するに日曜日は休みなさいということですが、このルールはイエス・キリストが現れる時代には非常に細かい規定が盛られることになります。
例えば日曜日に○キロメートル以上歩くと労働になるからルール違反、女性は髪の毛を漉くと労働になるからルール違反、床を上げたら労働だからルール違反、みたいに。馬鹿みたいですけど、ユダヤ民族は本気でこれらルールを定めていきました。この様ながんじがらめのルールを批判したのがイエス・キリストです。以下は聖書の抜粋です。
ルカ伝14章
ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家にはいられたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。そこには、イエスの真正面に、水腫をわずらっている人がいた。イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」と言われた。しかし、彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いて直してやり、そしてお帰しになった。それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」彼らは答えることができなかった。
何が善で何が悪だろうか?何が罪で何が正しいか?と悩んでいる現代人は、意外なほど二千年前のユダヤ人と似ていると思いませんか?