2019年04月09日

落合陽一『魔法の世紀』の要約

哲学サロンで読書会をやってます。以下は、
落合陽一『魔法の世紀』を題材としたときの資料の一部。
 
<この本は何が書いてるの?>
(問題)コンピューターが進化したらどうなる?
(回答)映像の世紀から、魔法の世紀になるよ!
 
→簡単に言うと、
コンピューターが計算したものを「2次元のスクリーン」に絵として映し出す時代から、「3次元のスクリーン」にモノとして映し出す時代になるよ!それって魔法みたいだよね!ワクワク(^△^)
 
→で、結局、何が言いたい本かというと、
「そんな魔法の世紀を、オレが自分の技術で創り出してやる!そして、空間上に映し出された『バーチャルなモノ』を、どんどん綺麗にして、いつか『現実のモノ』と区別がつかなくしてやるぜええ!オレは『モノ』の定義をアップデートして、現実をハックする!デジタルネーチャー!」
 
<内容(1)>
本の冒頭で、落合陽一は「アラン・ケイ」という大天才を紹介する。
アランさんは、1973年、初めてGUIコンピュータ「Alto」(マウスでポチポチ動かすタイプのコンピュータ)を創った人。その10年後ぐらいに、やっとMacが世にでてくるのだから、アランさんって、めちゃくちゃ先進的な人だよね。
 
そんなアランさんは、「究極のコンピュータはこれだ!」という五つの目標を提唱する。
 
「持ち運び可能。マルチメディア対応(音楽と映像が楽しめる)。タッチパネルで簡単な操作性。簡素なOS。ユーザが自分でアプリを作れる」
 
上記をみてわかるように、ほぼ現代のスマホであり、それがこんな昔から予測されているわけで、「うおおアラン・ケイすげーー」って話なわけだけど、そのアランの上司サザサンドが、さらにキレてた。彼はこう提案する。
 
「究極のディスプレイとは、コンピュータがモノを操れる部屋だ。人間がコンピュータに『椅子を表示しろ』と言ったら、パッとすぐに目の前に、座れる椅子が現れる。いらなくなったらすぐに消すこともできる。そんな魔法みたいな部屋が究極のディスプレーだ!」
 
つまり、今、コンピューターは「2次元の平面(板)」をスクリーンとして計算結果を映し出しているけど、未来は「3次元の空間(部屋)」をスクリーンとして映し出すような時代になる、と昔の天才が言っていたぞーという話。
 
<内容(2)>
さて、サザサンドという人が、夢みたいなことを言ったわけだが、落合陽一は、それは実現可能で、しかも、今、自分が開発中だという。
すでに、以下の動画に、空中にプラズマを飛ばして、それをコンピューターで制御して、ハートを書いたり、ボタンを作ったりしている。(しかも、単なる光ではないので、触ると、ぷにっていう抵抗感まであるらしい)
https://www.youtube.com/watch?v=AoWi10YVmfE
 
将来、上記のような「空中に絵を描く装置」ができて、解像度がどんどん高くなれば、もはや現実の物体なのか、コンピューターが空中に描いた物体なのかわからなくなる。
このとき、世界には「自然由来のモノ」と「コンピューター由来のモノ」が混ざり合い、もはやどっちがどっちか区別もつかなくなる。
 
「果たして公園に映えている、あの樹木は、自然のものかなのか?機械的に作られたものなのか? いや、区別つかないし、もうどっちでもいいや。どっちも同じ自然だとして受け入れよう」
 
という感じになった次世代の世界観を落合陽一は「デジタルネーチャー」と呼ぶ。

以上。
 
3次元空間をスクリーンにして、
コンピューターでリアルなモノを描かせて、
自然物(リアル)と人工物(バーチャル)の
区別がつかない魔法みたいな
不思議な世界(デジタルネーチャー)にしてやるぜ、
という中二病っぽいお話しでした。
 
(追記)
 
【落合陽一『魔法の世紀』の要約(2)】
 
最終章では、『高度に人工知能(AI)が進化した世界において、人間はどんな存在として生きていくのか?』について落合陽一は答えている。ざっくり言うと、回答は三つ。
 
(問題)AIがメッチャ進化したら、そのとき人間は?
 
→(回答1)人間のためのインターフェースになる
→(回答2)安価なアクチュエーターになる
→(回答3)モチベとビジョンを与える存在となる
 
■(回答1)人間のためのインターフェースになる
 ようは。「レストランでロボットに料理を運んでもらうより、人間に運んでもらった方がなんか美味しく感じるよね」「自動運転のタクシーでも、運転席に制服きたおっさんがいた方がなんか安心するよね」「便利なスマホがあったとしても、仮にスマホと同機能の女の子がいたら、ぜったい女の子の方を選ぶよね」というお話。
 結局、機械がどんなに便利になって自動化されても、「あいだに人間をはさんだ方が、サービスを受ける側はなんか嬉しい」わけで、そのために「人間は必要とされる」というお話。
 「結局、人間は人間のために必要なのだ」みたいな話で超面白い。
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東浩紀『動物化するポストモダン』の要約

哲学サロンで読書会をやってます。以下は、そのときの資料の一部。

・ポストモダンとは → 1970年代以降の世界のこと
 
・哲学者コジェーヴの説
 →ポストモダンの世界は、「動物化」するか「スノッブ化」するかの二択だ。
 
・動物と人間の違い
 →動物は欲望を満たすのに他者は不要(欲求を満たして終わり)。
 →人間は欲望を満たすのに他者が必要(他人に嫉妬されたい)。
 
・動物化とは
 →人間が、上記の動物みたいになること。
・スノッブとは
 →知識人気取り。ええかっこしい。斜に構えて愚痴ばかり呟くTwitter民。

ゆえに、『動物化するポストモダン』とは、
『1970年代以降の世界は、無意味に即物的に要求を満たすだけの
 動物みたい人間が増えてきたよねー』みたいな内容。
 
・シミュラークルとは
 →模造品。二次創作。をカッコよく言っただけ。
 
・大きな物語とは
 →宗教とか、理想の政治思想とか、生きる目的とか、みんなが信じるべき物語のこと。
 東西冷戦(理想の政治を求める米ソ対立)の崩壊で「大きな物語」はなくなった。
 
・大きな物語について大塚の説
 →現実で「大きな物語」が崩壊したので、みんな、それをサブカルチャーでねつ造した。ガンダムで例えると、その世界観や設定が「大きな物語」で、アニメシリーズやガンプラが「小さな物語」。みんな「小さな物語」を消費して、背後にある「大きな物語」に触れようとする。この行動を「物語消費」と呼ぶ。
 
・ガンダムの時代
 →ガンダムは「大きな物語」の崩壊に立ち会った世代のコンテンツ。だから、ガンダムの設定には「オールドタイプとニュータイプの対立」とか「宇宙世紀という年表」など、社会的なテーマがちゃんとあった。
 
・エヴァンゲリオンの台頭
 →「大きな物語」がないのが当たり前の世代のコンテンツ。みんな背後にある設定なんてどうでもよくて、ただ綾波萌え。EVAっぽい、思わせぶりな設定でノれればOK。原作者すらパロディやりまくり。複雑で雑多な設定はあるけど、実は特に意味がない(ガフの部屋って何だよ!)。こうした、一貫したテーマやストーリー性のない雑多な世界設定の集まりのような作品(エヴァンゲリオン)を、東浩紀は「大きな非物語」と読んだ。
 
・デジキャラット(萌えアニメ)の台頭
 →萌える記号の組合せで作られる作品。猫耳+メイド+ツンデレ。もはや「大きな物語」は存在しない。

・東浩紀の説
 →データベースに入ってる設定や萌え要素を自由に取り出し、模造品(組合せのキャラ)を創作してるのだから、今の時代は「物語消費」ではなく、「データベース消費」と呼ぶべきだ。
 ※ここで言う、データベースは「過去のアニメの資産(歴史)」だと単純に考えるといいかも。ようするに、「過去に売れた作品を適当に組み合わせた、気持ちよくなれるだけのテーマ性のない作品」を次々と生み出しては消費する……そういうオタクどもがたくさん現れたぞ、というお話。
 
・したがって、オタクの行動原理は、薬物中毒みたいなもの。自分が気持ちよくなる記号の組合せを取り出して、個人的な欲求を得るだけ。ゆえに、現代のオタクは動物化したと言える。
 
結論。現代社会(ポストモダン)は
「データベースとシミュラークル」を消費する時代であり、
(つまり、「過去の資産の組み合わせで作られた、2次創作みたいな萌えアニメ」
を消費する時代であり、)
人間は、データベースの記号を漁るだけの動物になってしまった時代である。

時に、大きな非物語について語り合う人(EVAについて語り合う人)もいるが、
イデオロギー(思想)を共有して会話してるわけではなく
、いつでもやめられるので、それは「ただの、形式的で擬似的な人間関係」でしかない。

→ゆえに、ポストモダン(1970年)以降、世界はただ即物的に、だれの生にも意味を与えることなく漂っているだけである。
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