落合陽一『魔法の世紀』を題材としたときの資料の一部。
<この本は何が書いてるの?>
(問題)コンピューターが進化したらどうなる?
(回答)映像の世紀から、魔法の世紀になるよ!
→簡単に言うと、
コンピューターが計算したものを「2次元のスクリーン」に絵として映し出す時代から、「3次元のスクリーン」にモノとして映し出す時代になるよ!それって魔法みたいだよね!ワクワク(^△^)
→で、結局、何が言いたい本かというと、
「そんな魔法の世紀を、オレが自分の技術で創り出してやる!そして、空間上に映し出された『バーチャルなモノ』を、どんどん綺麗にして、いつか『現実のモノ』と区別がつかなくしてやるぜええ!オレは『モノ』の定義をアップデートして、現実をハックする!デジタルネーチャー!」
<内容(1)>
本の冒頭で、落合陽一は「アラン・ケイ」という大天才を紹介する。
アランさんは、1973年、初めてGUIコンピュータ「Alto」(マウスでポチポチ動かすタイプのコンピュータ)を創った人。その10年後ぐらいに、やっとMacが世にでてくるのだから、アランさんって、めちゃくちゃ先進的な人だよね。
そんなアランさんは、「究極のコンピュータはこれだ!」という五つの目標を提唱する。
「持ち運び可能。マルチメディア対応(音楽と映像が楽しめる)。タッチパネルで簡単な操作性。簡素なOS。ユーザが自分でアプリを作れる」
上記をみてわかるように、ほぼ現代のスマホであり、それがこんな昔から予測されているわけで、「うおおアラン・ケイすげーー」って話なわけだけど、そのアランの上司サザサンドが、さらにキレてた。彼はこう提案する。
「究極のディスプレイとは、コンピュータがモノを操れる部屋だ。人間がコンピュータに『椅子を表示しろ』と言ったら、パッとすぐに目の前に、座れる椅子が現れる。いらなくなったらすぐに消すこともできる。そんな魔法みたいな部屋が究極のディスプレーだ!」
つまり、今、コンピューターは「2次元の平面(板)」をスクリーンとして計算結果を映し出しているけど、未来は「3次元の空間(部屋)」をスクリーンとして映し出すような時代になる、と昔の天才が言っていたぞーという話。
<内容(2)>
さて、サザサンドという人が、夢みたいなことを言ったわけだが、落合陽一は、それは実現可能で、しかも、今、自分が開発中だという。
すでに、以下の動画に、空中にプラズマを飛ばして、それをコンピューターで制御して、ハートを書いたり、ボタンを作ったりしている。(しかも、単なる光ではないので、触ると、ぷにっていう抵抗感まであるらしい)
https://www.youtube.com/watch?v=AoWi10YVmfE
将来、上記のような「空中に絵を描く装置」ができて、解像度がどんどん高くなれば、もはや現実の物体なのか、コンピューターが空中に描いた物体なのかわからなくなる。
このとき、世界には「自然由来のモノ」と「コンピューター由来のモノ」が混ざり合い、もはやどっちがどっちか区別もつかなくなる。
「果たして公園に映えている、あの樹木は、自然のものかなのか?機械的に作られたものなのか? いや、区別つかないし、もうどっちでもいいや。どっちも同じ自然だとして受け入れよう」
という感じになった次世代の世界観を落合陽一は「デジタルネーチャー」と呼ぶ。
以上。
3次元空間をスクリーンにして、
コンピューターでリアルなモノを描かせて、
自然物(リアル)と人工物(バーチャル)の
区別がつかない魔法みたいな
不思議な世界(デジタルネーチャー)にしてやるぜ、
という中二病っぽいお話しでした。
(追記)
【落合陽一『魔法の世紀』の要約(2)】
最終章では、『高度に人工知能(AI)が進化した世界において、人間はどんな存在として生きていくのか?』について落合陽一は答えている。ざっくり言うと、回答は三つ。
(問題)AIがメッチャ進化したら、そのとき人間は?
→(回答1)人間のためのインターフェースになる
→(回答2)安価なアクチュエーターになる
→(回答3)モチベとビジョンを与える存在となる
■(回答1)人間のためのインターフェースになる
ようは。「レストランでロボットに料理を運んでもらうより、人間に運んでもらった方がなんか美味しく感じるよね」「自動運転のタクシーでも、運転席に制服きたおっさんがいた方がなんか安心するよね」「便利なスマホがあったとしても、仮にスマホと同機能の女の子がいたら、ぜったい女の子の方を選ぶよね」というお話。
結局、機械がどんなに便利になって自動化されても、「あいだに人間をはさんだ方が、サービスを受ける側はなんか嬉しい」わけで、そのために「人間は必要とされる」というお話。
「結局、人間は人間のために必要なのだ」みたいな話で超面白い。